クラブについて
こだまゴルフクラブは1977年5月、プライベートクラブとして誕生しました。
設計を担当したのは「東の井上誠一、西の上田治」として名高い上田治氏。
関東に計画されたコースではありましたが、親会社の本拠地が関西だったこともあって上田氏が招聘されたのです。
上田氏が目指したのは「レベルを問わず誰もが楽しめるコース」。潤沢かつ変化に富んだ敷地の地形を生かしつつ、それまでに培った知見を活かして造り上げた18ホールは上田氏にとって最後の作品になりました。本来なら27ホールが可能な面積だったため、それぞれのホールはゆったりと余裕を持ち、グリーンからティーグラウンドへの導線は短く快適です。
そしてもちろん、数々の名コースを遺した上田氏だけに、レイアウトは戦略的で、上級者を満足させる深みを湛えています。無理せず自分のレベルに応じたプレーには限りない喜びを与え、パーオンを狙っていくプレーには正確なポジショニングを要求する、その両面を盛り込んだ巨匠の仕事は見事というほかありません。
1995年には川田太三氏の改造設計により、グリーン改修、バンカー造形および法面造形の工事を実施し、より現代のゴルフスタイルにマッチした姿になりましたが、これによって上田氏の原設計がさらに研ぎ澄まされ、より面白いプレーが提供できるようになったと自負しております。
1998年7月にはJGAのコースレート72.8を取得し、2005年より朝日杯争奪日本学生ゴルフ選手権、同日本女子学生ゴルフ選手権、信夫杯争奪日本大学ゴルフ対抗戦など、たびたび学生競技の会場となり、米ツアーで活躍中の松山英樹プロも学生時代にここでプレーし腕を磨きました。2015年にはLPGAの最終プロテストが行われるなど、登竜門としての一面も持つコースです。
とはいえふだんは静かで、群生する赤松や毎年咲き誇るさまざまな種類の桜など、豊かな植生に囲まれてのんびりとプレーすることが可能です。敷地内で多数の古墳が発見されるなど、ここはかつて地域の文化の中心地でありましたが、そんな雰囲気も肌で感じながら、非日常の時間を楽しめる環境を用意してお待ちしておりますので、ぜひ一度ご来場を賜れば幸いです。
「上田治の最終作は、
期待にたがわぬ傑作である」
ゴルフジャーナリスト 小林一人
日本を代表するゴルフコース設計家である上田治。その最後の作品として知られるこだまゴルフクラブだが、期待を裏切らないコースといっていいと思う。まず何よりもルーティングがいいし、それぞれのホールも個性的でバリエーションに富んでいる。実にプレーしやすいし、戦略性はあるけれどもどこかおおらかさを感じるコース。加えて言うなら「毎日プレーしても飽きない」といった表現が似合うのではないだろうか。
世界的なチェリストであるヨーヨー・マはかつてインタビューで「いまは自分の才能を証明するために演奏する必要がないのが嬉しい」と語っていたが、おそらく上田治もそういう心境だったのではないか。世の中に認められる前は自らを認めてもらうための演奏をしなければならなかったが、現在ではその必要がなく、純粋に音楽を楽しめるという意味でマは語ったのだが、こだまゴルフクラブの依頼を受けた上田治にも自らの才能を証明する必要はまるでなく、しかも、健康上の理由で最後になるかもしれないという要素が加わっていたのだから、それが特別なものになるのは自明のことだったのかもしれない。
いまさらながら上田治を紹介しておくと、1930年にかのチャールズ・H・アリソンが来日し廣野ゴルフ倶楽部を造ったときに助手として働いたのが上田で、それがきっかけでコース設計家の道を歩むようになる。1940年からは廣野の支配人を務め、戦争で荒廃したコースをアリソンの原設計に復元するという大きな仕事を果たした。言わばアリソンの哲学を知り尽くした人物であり、廣野のほか鳴尾や川奈の富士コースなど、現在世界的に評価されている日本のコースが軒並みアリソンがかかわったものだということを鑑みると、手がけた作品の価値の高さが理解してもらえると思う。
さて、こだまゴルフクラブを実際にプレーしてみると感じるのはティーショットの面白さだ。視界に広がる景色は決して狭くはなくむしろ広いのだが、フェアウェイバンカーが効いているので、ある程度飛距離が出るゴルファーはそこを避けて打っていかなければならない。距離が出れば出るほどポジショニングを考えなくてはならない巧みなレイアウトだといえるだろう。
グリーン周りはいかにも上田治らしい片側を砲台にした造りが多く、攻めるにはリスクをとらなければならないが、セーフティーに行くことも可能だ。ガードバンカーは効かせ過ぎず、効かせなさ過ぎずといった塩梅でちょうどいい。グリーンはうねるようなアンジュレーションではないが、川田太三氏らしく大きな面が折り重なっていて錯覚を生じさせる。ショートパットが意外な切れ方をする一筋縄ではいかないグリーンだ。
シグネチャーホールはアウトの4番のパー5、インでは17番のパー3が印象的だ。4番は2打目の落下地点に大きなバンカーが待ち構えていてミスショットを呑み込んでしまう。バンカーの表面には水が流れているのでここに打ち込んでしまうとウォーターショット余儀なくされ、攻略プランが立たなくなってしまう。ホールの全景はスタイリッシュだが前半の関門といえるだろう。
17番はホールの真ん中にクリークが流れていて2つのグリーンを分断している。左グリーンの右サイド、右グリーンの左サイドにピンが切ってあるとクリークが効いてきて、ゲームの展開上攻めざるを得ない状況ではプレッシャーがかかる。
そのほか印象的なのは左サイドに2本の御神木が並び立つの8番のパー5。ここはコースの中央に位置しており、御神木のアカマツは敷地内の木々を守っているという。ナイスショットを放っても右のフェアウェイバンカーにつかまることが多いのは神様のいたずらか。また15番は前方後円墳のあるメモラブルなパー5。ここは2打目のポジショニングが重要で、蛇のように走る右サイドのフェアウェイバンカーに入れないようにしたい。5番のパー3、12番のパー3もしっかりと距離があってまぐれでは乗せられないホール。挙げ始めるときりがないが、要はすべてのホールがパーを取るとなるとタフであり、設計家の意図が伝わってくるようだ。
思い返せば、すでに名声を得ていた上田治が、「これが最後になる」という思いを抱きながらコースを造ったとしたらどんなものになるのか、初見の前はそんなクエスチョンに対する答えをあれこれ考えるのが楽しかった記憶がある。そして実際にコースと対峙してみると、なるほど最後はこういうものになるのか、と深く納得させられたものだった。とりたてて難しくする必要はなく、かといって接待コースにするというミッションでもなかったから、用地から受けるインスピレーションのままに造ったのだろうし、だからこそフェアで、万人が楽しめるコースに仕上がったのだろう。次はどういうホールと出会えるのか、と胸を躍らせながら18ホールを辿ることのできる巨匠の傑作をぜひ楽しんでいただきたいと思う。
- 上田 治
Osamu Ueda
1907年(明治40年)大阪府茨木市生まれ。旧制茨木中学在学中に100m背泳ぎで日本記録を樹立し、20歳のとき極東オリンピック上海大会に出場した経験もあるトップスイマーだった。
京都大学農学部では林学と造園学を学び、1930年にチャールズ・H・アリソンが来日した際に廣野ゴルフ倶楽部造成の助手を務めたことで設計家の道を歩み始める。廣野が完成した後はグリーンキーパーを務め、1940年からは支配人に就任し、荒廃したコースをアリソンの原設計に戻す。
設計家としての初仕事は1934年開場の門司ゴルフ倶楽部で、最終作となる1977年開場のこだまゴルフクラブまで生涯で56コースを日本に遺した。
「東の井上、西の上田」として井上誠一と並び評されるが、「剛の上田」とも呼ばれるように、多少難しい用地でも設計を引き受け、大量の土を動かしてダイナミックなデザインのコースを造ったことで知られる。